近代の文豪である太宰治と川端康成が船橋にゆかりが深いことをご存知でしょうか。市内には、その文学活動をうかがうことのできる文学碑などがあります。
文化課では、この二人の船橋との関係や文学碑など、ゆかりの場所を分かりやすく説明したリーフレットを作成し、配布しています。
文学散歩にご活用いただき、二人の文豪の足跡に思いを馳せるのはいかがでしょうか。
太宰治(本名 津島修治)は、明治42年(1909)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現 青森県五所川原市)に生まれました。「走れメロス」「津軽」「人間失格」など数々の名作を残し、昭和23年(1948)6月に39歳で早世しました。
太宰治は、短い期間ですが船橋で生活していました。昭和10年(1935)7月、26歳の時に千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地(現 宮本一丁目)の新築の借家に移り住みました。この頃の太宰は、盲腸炎をこじらせ腹膜炎となり、鎮痛剤パビナールによる中毒に陥っていました。その療養のため、妻の初代とともに東京杉並の天沼から転居したのでした。しかし、パビナール中毒を断つことができず、症状の悪化を心配した家族が井伏鱒二に説得を依頼し、昭和11年(1936)10月に東京の武蔵野病院に移ることとなりました。
約1年3か月の船橋滞在でしたが、この間に「ダス・ゲマイネ」「めくら草紙」「虚構の春」などの作品を発表しました。また、最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行しました。
詳しい内容は「太宰治と船橋」をご覧ください
川端康成は、明治32年(1899)6月、大阪府大阪市に生まれました。「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」など数々の名作を残し、昭和43年(1968)に日本人として初となるノーベル文学賞を受賞しました。昭和47年(1972)、72歳で自ら命を絶ちました。
川端康成は、昭和8~10年(1933~1935)頃、小説を執筆するために割烹旅館三田浜楽園(かっぽうりょかんみたはまらくえん)に何度も足を運びました。その旅館の一室で「童謡」をはじめとする何篇かの小説を書きました。そして、昭和10年(1935)、「童謡」が雑誌『改造』に発表されました。
「童謡」には舞台の名称は出てきませんが、割烹旅館三田浜楽園とされています。作品の内容は、旅館に泊まって絵を描いている日本画家の滝野と半玉(はんぎょく)※の金弥(きんや)を中心にした話です。
※半玉(はんぎょく):見習い芸者のこと。
詳しい内容は「川端康成と船橋」をご覧ください
船橋市教育委員会 生涯学習部 文化課
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