【170周年記念連載】安政から令和へ――「肉の店 鳥吉」170年の歩み
大名御用達、戦中の危機、鳥吉会館。街の発展と共に歩んだ「船橋本町時代」

皆さん、こんにちは!まいぷれ編集部です!
船橋市、北習志野駅近くでいつも活気に溢れている精肉店「肉の店 鳥吉(とりきち)」さんをご存知ですか?

北習志野駅より徒歩2分、
いつも買い物客で賑わう「肉の店 鳥吉」

店頭の看板には「創業安政三年」の文字!
なんと、今年(2026年)で創業170周年という大きな節目を迎えます。
170年近くもの間、船橋の地で商いを続け、地域の皆さんの食卓を支えてきた超・老舗なんです!
今回はそれを記念して、全3回にわたって鳥吉さんの壮大な歴史を紐解く特別連載企画をスタートします!
第1回は、江戸末期の創業から、街の発展とともに歩んだ「船橋本町時代」の黄金期、そして激動の戦中・戦後を生き抜いた歴史に迫ります!
「鳥吉」の歴史は今から170年近く前、江戸時代末期の安政3年(1856年)に遡ります。
時代は、日米修好通商条約の締結や桜田門外の変など、日本が近代国家へ舵を切る激動のさなか。
有限会社鳥吉商店の経歴書は「安政三年初期より」と始まる
鳥吉の歴史が綴られた「経歴書」によると、幕末から明治を経て大正初期に至るまでの間は「広く一般に馴染み深い活鳥に対して仲買及び売買人として全国津々浦々に及び営業を為し鳥吉の名も覚え目出広く各藩邸御用達として活躍」していたのだそう。
全国各地で商いを行い、なんと大名屋敷(各藩邸)の御用達を務めるほどの名店として親しまれていたんですね。
今回、特別に鳥吉の「経歴書」を拝見させていただきました
その後、大正8年初期より、船橋市本町2丁目1756番地(現在の船橋十字路近く)に居を移し、鶏肉、鳥卵、鳥獣肉、川魚等の販売を開始。
大正12年中ごろからは牛豚肉や加工品、お惣菜などを扱い始めました。
「鳥吉」の名は、昭和初期に描かれた松井天山の「船橋町鳥瞰図」(※鳥の目のように上空から街を描いた絵図)からもはっきりと確認できます。
当時の船橋は、成田参詣の宿場町、そして活気あふれる漁師町として大いに賑わっていた場所です。
本町1丁目の「鳥吉」店舗(昭和30年代撮影か)
戦後、食生活の変化とともに精肉の需要が高まると、鳥吉は船橋本町の「本店」を中心に、昭和30年代から40年代にかけて各地へ暖簾を広げていきます。
【鳥吉の店舗拡大】
昭和24年1月に「大久保支店」(習志野市大久保1丁目)
昭和27年10月に「旧市役所前支店」(船橋市本町4丁目)
昭和33年2月に「駅前支店」(船橋市本町2丁目、駅前通り)昭和38年10月に「高根台団地支店」(船橋市高根台団地ショッピングセンター内)
昭和41年11月に「海神支店」(船橋市海神東1丁目、京成海神駅前)
→昭和42年2月に「北習志野台団地支店」(習志野台団地第二ショッピングセンター内)
変わりゆく時代とともに店舗を拡大
この拡大の中で、地域のファンをさらに増やしていったのが名物のお惣菜でした。
昭和33年2月にオープンした「駅前支店」
漁師町育ちだった女将さんの影響もあり、当時は毎朝「船橋駅前市場」(※当時JRと京成の間にあった市場)へ足を運び、新鮮なアジやイカを仕入れていたそう。

船橋駅前にあった「公認 船橋駅前市場」、昭和29年6月撮影(写真提供:川守商店)
駅前通りの支店で自ら魚介をさばき、揚げたての「自家製アジフライ・イカフライ」として販売すると、これが大評判に!
今も地域で愛される美味しいお惣菜のルーツは、まさにこの頃築かれていったのです。
現在の京成船橋駅すぐ近くにお店を構えていました
鳥吉の歴史の中で、本町の繁栄を象徴するのが、昭和初期から高度経済成長期にかけて店を率いた4代目・広瀬正夫(ひろせ まさお)さんでした。現当主である6代目・田地野啓市(たぢのけいいち)さんのおじい様です。
4代目・広瀬正夫(ひろせ まさお)氏
正夫さんは、成田山新勝寺の節分会で豆をまく「年男」の由緒ある権利を持っていました。
現在のようにNHK大河ドラマの出演者や大相撲力士が特別年男として参加するようになったのは、昭和44年(1969年)頃から
節分の当日には、地元の若者たちが担ぐ神輿が20基ほど集まり、年男である正夫さんを神輿に乗せて本堂を目指します。
他のお神輿と激しくぶつかり合う「喧嘩神輿」は、街を挙げた賑やかな行事でした。
その日は参道にある老舗の鰻屋を貸し切りにし、鳥吉一族が集まって大宴会を開くのが恒例だったそうです。
昭和22年1月に店舗を新築移転し、昭和35年には大衆向き割烹部を併設。
そして昭和42年10月1日、4代目は船橋本町に当時としては画期的な5階建てのビル「鳥吉会館」を建設しました。
船橋市、本町通りに店舗を構える「鳥吉肉店」
館内には当時珍しいエレベーターや結婚式場が備えられ、近隣にオープンした「船橋ヘルスセンター」とともに、地域の皆さんがハレの日に集まる船橋本町のランドマークとして親しまれました。
華やかな繁栄を極めた鳥吉ですが、その裏側では太平洋戦争という大きな試練を乗り越えてきました。
戦争の影が覆うと、多くの人々が疎開し船橋本町からも人影が消えていきました。
しかし鳥吉に残ったメンバーたちは、近隣の競馬場などから馬肉を仕入れ、一斗缶にぎっしり詰めて疎開先の人々へ届けるという決死の行商を行い、商いの灯を消しませんでした。
食糧難の時代、貴重な食糧を届けるこの行商は多くの人々を助け、同時に鳥吉の商いを支える大切な糧となりました。
今も伝わる「船橋 鳥吉」の法被
また同じく戦時中には、今の鳥吉につながる忘れられない出来事もありました。
現当主である6代目・田地野啓市さんのお父さん(後の5代目)が、まだ幼かった頃のお話です。
空襲警報が響く中、必死で逃げていたお父さんは、安全な場所へ逃げ込もうとした角のところで、前を走っていた青年と鉢合わせになりました。
体が小さかったお父さんが一歩譲り、青年が先に角を曲がった直後――凄まじい音とともに爆風に巻き込まれ、青年は命を落としてしまったのです。
「もし自分が先に進んでいたら、命はなかったかもしれない……」
皆さんの前で歴史を重ねた法被をお披露目する現6代目
お父さんが晩年、子どもたちに静かに語り聞かせたという「九死に一生」の体験。
ほんのわずかな違いで繋がった命があったからこそ、今の鳥吉さんがあります。過酷な時代を生き抜き、家業を守る想いは、こうして次の世代へと受け継がれていきました。
戦後、4代目の正夫さんの娘さんのもとへ婿入りしたのが、5代目(啓市さんのお父さん)でした。
この5代目は大の狩猟好きとしても知られ、シカやイノシシを求めて自ら山に入るほど!そのため当時の鳥吉の食卓には当たり前のようにジビエ(野生鳥獣の肉)が並んでいたそうです。
「良い肉を見極めて提供する」というお肉へのこだわりや情熱は、5代目のバイタリティと探求心によって磨かれていきました。
「良いものを適正価格で」を信念に
しかし、本町で大きな繁盛を見せる一方で、暖簾の将来をどう引き継ぐかという大きな転機が訪れます。
大久保にも店舗があり、当時5代目はすでに支店として「北習志野台団地支店」を運営していました。
そんな中、4代目の正夫さんは自身の代で本町のお店を畳むことを決断します。
正夫さんが病床に伏していた際、当時大学生だったお孫さんの啓市さん(現6代目)を呼び寄せ、こう語りかけました。
買い物客で賑わう駅前支店
「お前、鳥吉を継いでくれるかい?」
「心配しないでくれ。俺がしっかりとやっていくから」現6代目は強く約束しました。
現6代目・田地野啓市さん
本町の黄金期を築き上げたおじい様から病床で直接託された、この言葉。6代目・啓市さんはこの固い約束を今も大切に胸に刻んでいます。
こうして「鳥吉」の暖簾と伝統の本筋は、5代目、そして6代目・啓市さんへと受け継がれ、長年店を支えた方々とともに、戦後の荒波を力強く乗り越えていくことになります。
船橋本町で歩みを重ねてきた鳥吉ですが、昭和40年代に入ると都市開発に伴い新たな時代を迎えます。
次回第2回は、本町から「JuJuきたなら」への移転、苦難の御用聞き時代、そして「レストラン鳥吉」の挑戦に迫ります。どうぞお楽しみに!

現6代目・啓市さんと長年「鳥吉」を支えた皆さん
次回は皆さんに詳しく話を伺います
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。