船橋の暮らしに役立つお店特集
(更新)
まいぷれ × 矢島酒店特集 第2回
全国の酒蔵200社以上、常時およそ500種類。地酒の専門店として知られる矢島酒店ですが、1963年当時は小さな食料品店でした。どのような経緯で地酒の店になったのか。いま店を動かしているお2人にお話を伺いました。全3回でお届けする矢島酒店特集、第2回は矢島酒店の歴史にフォーカスします。
第1回では、矢島酒店が「入りやすい店」であるために何をしてきたかをお伝えしました。今回は、この店がどのような経緯を経て現在に至ったのかというお話です。
常時店頭に並ぶお酒は、およそ500種類。取引のある酒蔵は200社以上。全国でも有数の地酒店である今を思うと意外に思われるかもしれませんが、矢島酒店の歴史は小さな食料品店から始まりました。
今回はまいぷれ編集部が、 矢島酒店3代目である矢島幹也さんと現店長の岡野さんに、 次の4つを伺いました。
はじめに

矢島幹也さん3代目代表取締役
高校3年生のときに店を継ぐと決め、20歳から4年間、地酒専門店で住み込みの修行へ。25歳で店に戻り、酒蔵との直接取引を一軒ずつ開拓してきました。現在も、酒蔵や飲食店との関係づくりを担っています。

岡野さん店長
家業だった矢島酒店に、初めての社員として入社。現在は既存の取引先や仕入先とのやり取りなどを担当し、店の内側を預かっています。
1963昭和38年
問い①「矢島酒店の始まりは?」
魚と野菜を売り歩く商売から始まりました。
矢島酒店を開いたのは、幹也さんの祖父にあたる矢島賢三さん。
戦前は汽車をつくる工場に勤めていましたが、戦争へ。帰ってきたときには世の中がガラリと変わっていたといいます。賢三さんは、南行徳の農家の次男だったため、実家の野菜や浦安で仕入れた魚介類を売り歩く商売を始めました。
やがて、自分は商売に向いていることに気づき、店を構えることに。場所は、いまと同じ土地です。当時このあたりは農村地帯でまだ住宅も少なかったものの、人の流れとしては良い場所だと踏んだそうです。
まず始めたのは食料品店でした。まわりに店が少なかったこともあり、物がよく売れたといいます。次第に酒やたばこ、塩なども扱うことになり、そのために酒類販売の免許を取得しました。
最初から酒屋を始めたのではなく、食料品店が酒も扱うようになった。それが、この店の出発点だったのです。
2代目として店を継いだのは、初代のご子息にあたる現在の会長・矢島敏和さんです。1967年頃、大学在学中に親の怪我を機に家業を支えるため大学を離れ、店に入りました。
以来、初代と二人三脚で店を切り盛りしてきました。しかし時代は変わり、次第に近所に商店やスーパーが増えていく中で、他の店にできないことはないかと試行錯誤を重ねていたそうです。
1995平成7年
問い②「なぜ、地酒の道へ舵を切ったのか」
2代目が同級生と再会したのが、きっかけでした。
1980年代まで、酒屋は免許に守られた商売でした。当時の酒類の販売免許には、既存の酒販店から一定の距離以内には新しい免許を発行しないという距離基準と、地域の人口に応じて免許の数を制限する人口基準があり、新規参入が簡単ではなかったためです。
矢島酒店のように免許を持つ店は、その地域で競合を気にすることなく商売ができました。そのため、ビールやたばこ、大手メーカーのお酒を置いておけば、一定の売上が立ったといいます。
酒屋を取り巻く制度は、こう変わった
1989年 酒類販売業免許の取扱要領が改正され、段階的な規制緩和が始まる
1990年代前半 酒類のディスカウントストアが全国で急増
1995年以降 スーパーやコンビニエンスストアで酒類を扱う店が増える
2001年 距離基準が廃止
2003年 人口基準が廃止
2006年 「緊急調整地域」の指定も廃止され、事実上の自由化に
1995年頃、幹也さんが高校3年生のときに、初代が亡くなります。当時、2代目である父・敏和さんは、酒屋を取り巻く環境の変化に強い危機感を抱いていました。『これまでと同じやり方では、 この先は厳しい』。そんな父の姿や日頃の言葉に触れるなかで、幹也さんも高校生ながら、店が大きな転換期を迎えていることを感じていたといいます。

父がよく「これまでのやり方では、大手にはもう太刀打ちできない」と言っていて。高校生ながらに、何か手を打たないとまずいんだろうな、と感じていました。
その頃、2代目が高校時代の同級生と再会、その相手は千葉市で地酒の専門店を営んでいました。そこで「地酒を扱っていかないと、この先やっていけないぞ」と言われたそうです。これが、矢島酒店が「地酒」を意識し始めた瞬間でした。
幹也さんは、当時はまだ店を継ぐか決めていなかったといいます。このような時勢の変化もある中で、周囲には継がないほうがいい、という声もあったそうです。それでも継ぐと決めた理由は、非常にシンプルでした。

初代がやって、父がやって、僕がやらなければ、この店はなくなってしまう。だから継ぐことにしたんです。
店を継ぐことに決めた幹也さんは大学へ進む代わりに、地酒専門店で修行を開始します。20歳から24歳までの4年間、住み込みで日本酒の基礎を学びました。当時の矢島酒店には、まだ日本酒を学べる環境がなかったためです。
その4年のあいだに、矢島酒店では2代目が問屋を通じた地酒の取り扱いを少しずつ広げていきました。息子が戻ってきたときのために、少しでも経営の助けになればという思いだったといいます。
2000年代
問い③「200社もの酒蔵と、どのように繋がっていったのか」
名が知られる前に出会い、一緒に成長してきたという物語がありました。
修行を終えた幹也さんが店に戻ったのは、25歳のときでした。
25歳|矢島幹也さんが振り返る、当時
「取引先の飲食店もほぼゼロ。蔵元との直接取引による銘柄も、ほぼゼロという状態」
直接取引のある酒蔵はなく、売り先もない。それでも仕入れた分の支払いは待ってくれない。年中無休で朝から晩まで、一人で店に立った。船橋駅のあたりまで出て、居酒屋へ飛び込みで営業もした。
「生きていくのに精一杯だったんです。どうやったら売れるんだろう、とそればかり考えていました」
できることは何でもやった時期。その取り組みの一つがオンラインショップです。2003年頃、ホームページ作成ソフトを使って自らサイトを立ち上げ、独自ドメインもこのときに取得したといいます。

見た目は散々なホームページでしたよ。ショップとしてもあまり機能していなかった。でも、当時は誰もやっていなかったんです。
インターネットの人口普及率が6割を超えたのが、ちょうど2003年末のこと。家庭にネットが広がり始めたばかりの時期です。町の酒屋が自社でサイトをつくり、独自ドメインまで取得している例は、ほとんどなかったことでしょう。
サイトの立ち上げが、すぐに売上へ結びついたわけではありません。それでもこの判断は、立ち上げから10年ほど経った頃から少しずつ実を結び始め、その積み重ねが今につながっています。
現在では、オンラインショップは矢島酒店の事業を支える大きな柱の一つになっています。
まいぷれ編集部より
WEB検索したときに店が見つかるかどうかは、サイトをいつから、どれだけ続けてきたかにも大きく左右されます。2003年に始めた店と、これから始める店とでは、同じ手間をかけても差がつく。矢島酒店がWEBに強い理由の一つは、20年以上前のこの判断にありました。
店に戻ってしばらく後、幹也さんは酒蔵との直接取引を一軒ずつ開拓していきます。酒蔵との取引には幹也さんの強いこだわりが現れています。

おいしいから取引してください、ではないんです。お会いして、お酒を酌み交わして、この人のお酒を売りたいと思えるかどうか。格好をつけているわけではなくて、本当にそれが重要なんです。
この考え方を学んだのが、広島で宝剣を醸す宝剣酒造だったといいます。味の良し悪しよりも先に、人としての付き合いがあり、そこから取引が始まる。このように積極的な開拓を行っていった結果、様々な出会いも生まれました。
三重県で而今を醸す木屋正酒造とは日本酒のイベントで、奈良県でみむろ杉を醸す今西酒造とは、別の酒蔵の結婚式の席で。今でもつながりが深い酒蔵との出会いはどれも偶然だったといいます。
宝剣、而今、みむろ杉。今ではいずれも、全国的に名が知られた酒蔵です。
ただし幹也さんが出会った当時は、いずれの酒蔵も人気を博す前夜。矢島酒店も、当時は家族3人で営む無名の酒屋です。

こちらも無名で、家族3人でやっている酒屋でした。今では全国的に知られている酒蔵も、自社の酒を売るために試行錯誤を繰り返している真っ最中でした。何も持っていない者同士、一緒に成長していこうという話をしていたんです。
地域で一番の酒屋を目指す矢島酒店。自分たちの酒を世に広めていきたい酒蔵。そこには、単なる取引先という枠を超えた両者の物語があったのです。
2011平成23年
幹也さんが、日本酒を取り巻く時代の流れが変わったと感じたのは、 2011年だったといいます。
震災のあと、日本中が自粛の空気に包まれた時期がありました。そんな中、「飲むことが最大の応援になる」という発信をきっかけに、東北の地酒を応援しようという流れが一気に広がっていったそうです。
同じ頃、日本酒の飲まれ方も徐々に変化していきます。少量ずつさまざまな銘柄を楽しめる店が増え、ワイングラスで味わうスタイルも広がりました。そして、2000年代前半に出会った同世代の蔵元たちが、結果を出し始めます。

20代後半から30代を経て、「絶対に成功してやる」と思いながらみんなやってきた。その世代がそれぞれ花開いてきたんです。
酒蔵が伸びれば、その銘柄を取り扱う店にも注目が集まります。だから、矢島酒店と苦楽を共にした酒蔵が成長していった時期は、重なっているのです。
酒蔵が一度に造れる酒の量は決まっています。そのため、人気が出てから取引を申し込んでも、受け入れる余地がないことも多いのだとか。

酒蔵が有名になってから取引しようと思っても、簡単に新規の枠は増やせないんです。大変だった頃から一緒にやってきたからこそ今があると実感しています。
現在、矢島酒店に並ぶお酒のラインナップはお互いに無名だった頃に出会い、20年かけて共に成長してきた結果なのです。
そして、新しい関係も今なお生まれています。千葉県でも屈指の人気を誇る寒菊銘醸とは、比較的近年からの付き合いだそうです。同じ千葉県から日本一を目指そうという取り組みを、一緒に進めているといいます。
2015平成27年
問い④「矢島酒店の現在地」
家族経営を経て最初に入社した社員です。
来客が増え店が年々忙しくなる中で、家族だけでは店が回らなくなっていきます。
家業に社員を迎えるのは、資金の面でも経営の面でも勇気のいる決断だったといいます。それでも、付き合いのある酒蔵のお酒を広めるには仲間が必要だと考えました。2015年、最初の社員として入社したのが岡野さんです。
もともと父親がお酒好きだったという岡野さん。家には洋酒を中心にいろいろな種類のお酒があり、その中には日本酒もあったそう。お酒に興味を持ったのは自然の流れだったといいます。

大学生くらいの頃に、世の中にはおいしいお酒がたくさんあるのに、周りの人は意外と知らないんだな、と感じることがよくありました。
新卒で入った会社で働きながらも、いつか自分が興味を持てることを仕事にしたいと考えていたそうです。転職を考えてインターネットで地元の求人を調べていたときに見つけたのが、矢島酒店でした。
それまでは店の存在を知らず、訪れたこともなかったそうです。そこでまずは、いち顧客として店を見に行きました。

お酒に日光が当たらないようにしてあったり、扱い方をきちんと考えているお店なんだな、ということが、当時の自分にもなんとなく伝わってきたんです。
そして、そのまま履歴書を書いて、応募の電話をかけたそうです。
現在の役割分担は、はっきりしています。幹也さんは酒蔵や飲食店との関係づくりと新規の開拓を担い、岡野さんは既存の取引先や仕入先、関連会社とのやり取りなど店舗運営を受け持ちます。
幹也さんに、岡野さんのどこを評価しているのか伺いました。

僕は外に出ていることが多いので、急に取引が決まって新しい銘柄が増えたりもする。現場では常にいろんなことが起きているんです。
何もない頃の矢島酒店を、ずっと横で見てきた人間なので。自分だったらこう決断する、というのが、言わなくてもある程度は分かっている。僕が安心して出張に行けるのは、岡野がいるからです。
反対に岡野さんから見た幹也さんは、こんな人だそうです。

とにかくエネルギーがある人です。お酒に対する情熱は、本当に強い。
もう一つ感じるのは、いつでも真っ直ぐなところです。この店を通して地酒を世の中に広めて、取引先である酒蔵のお酒を売る。それが酒蔵の利益になり、自分たちや社員の利益にもなる。そしてなにより、お客さまに喜んでもらう。関わる人たちみんながよい状態になるように、正しい形で仕事を進めようとしている。そんな姿勢が一貫している人だと思います。
まいぷれ編集部より
家族3人だった店は、いまパートの方を含めて約20名。小さな食料品店から始まった矢島酒店は、全国にも存在感を放つ存在になりつつあります。
最後に、これからのことを伺いました。

矢島幹也さん
日本酒の立ち位置は、まだまだこれからだと思っています。ハレの日はもちろん、普段の食卓でも、お酒を飲むときに「日本酒」が自然と選択肢に入る。そんな機会を増やしていきたいんです。そのためにも、造り手の想いや日本酒の魅力を、しっかりと伝えていく。全国の酒蔵さんから「矢島酒店と一緒に日本酒を広げていきたい」と思っていただける存在を目指して、これからも挑戦を続けていきたいですね。

岡野さん
店が進むべき方向に、しっかり進めるように。私が店舗の運営を担うことで、いろんなことにチャレンジしていける環境を作っていきたいです。
創業当時から現在の場所で営業を続ける矢島酒店。今では連日多くの人々で賑わう店へと成長しました。今後このお店がどのように変化していくのか、これからも目が離せません。
NEXT ─ まいぷれ × 矢島酒店特集 第3回
矢島酒店で、実際に
一本選んでもらいました。
日本酒にくわしくない編集部員が客として店を訪ね、最初の一本が決まるまでをそのままお届けします。
coming soon…
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